2008年9月11日木曜日

集合知…人間の存在の仕方のひとつ

人間が集まって、全員で何かを自由に話したり聞いたりしているとき、その場に生まれる集合的な知がある。これを「場」が生まれると表現する人もいる。

誰かの口から自分の尋ねたかった質問が出たり、誰かの答えから自分の質問へのヒントが与えられたりする。ランドマークエデュケーションでアドバンスコースに参加したとき、初めてこれを体験した。それ以降、様々なところで類似の現象が起きていることが見えるようになったのだが。

アドバンスコースは、「私たちは何を現実・本当だとしているか」という問いかけを4日間扱っていく。意図は、「現実」も会話の集合に過ぎない、そして会話の集合が同意を得るとき、現実になる、ということを自分の力の一つとして掴むためだ。コースは探求の形をとる。つまり正解が重要なのではなく、自分の頭で物を考えることで見えてくることや発見できることの方が重要なのだ。しかし、アドバンスコースでは、実際に特定の答えを求める質問もあった。ときにはリーダーが、物理学の時間かと思うような質問をしてくる。100人の参加者の誰かが手を挙げて答え、このやり取りを通じて会話が進められていく。

何かが現実だと言うためには何が必要か、というような会話をしていたときだ。様々な人が手を挙げ、一コマ会話ずつを前進させる。「だとしたら、これはどうだ」という形で会話が何段階か進んだ後、一つの質問で百名全員が詰まってしまった。私も含めて何人かが、正解ではないと知りながらもこうではないか、と挑戦する。そうやって何人かの人が発言した後に、私の斜め何列前かに座っていた若い女性が初めて手を挙げた。リーダーに指名されてその女性が立った。おずおずと「あのー、こうこうということはこうこうで…」と自分の思考の一部を話し始めた。どの段階でだったか…私の記憶では彼女が立って「あのー」と話し始める以前、手を挙げて立った時点であったように思うが、私は「あっ、ここから答えかが出てくる」とわかった。そんなことあり得ないのだが「あ、出てくる」と分かったのだ。それも私だけでなく、部屋の全員に、今何かがこの人の口から生まれてくることが了解されている、という体験であった。果たして、彼女の口からは正解がでた。彼女の思考の結果として。

なぜ彼女が手を挙げて立ったときに、私に、そして、私の目からみて人にも、そしてリーダーにも、彼女の口から正解が出てくることが、「あのー」の段階でわかったのか。リーダーには一番先にわかっていたように思う。リーダーは、彼女が自分の思考をまとめるために、かなりもたもた話すのに、余裕を与えて待っていたからだ。出てくる、出てくる、とみんなが思っていた。そして答えが彼女の口から出た。ほーっと言うため息が漏れた。

こういう現象は、一度区別できれば、様々なところで見受けられる。本能的にこれを知っていて、引き起すように会議を主催する司会者もいる。私も自分がプログラムをリードするときには「この人から何かが出てくる」と分かるときがある。そのとき私たちは集合的な知として存在しているのではないかと思う。こういうようなことは、人が自由に思考して思ったことを自由に言い、それが一つの可能な観点として聞かれるオープンな場ではよく起きるように思う。

一人の独創的な思想家・天才から素晴らしいアイデアが出てくるのだろうか。それとも、実り多い自由な会話・思考の中で作られる集合知の中で誰かの口からアイデアが出てくるのだろうか。私は後者の方ではないかと思う。全員が参加したという意識があれば、その結果もより成果を生むのではないか。

話し合うこと、対話することが時間の無駄だと思う人もいる。大抵は、自分の考えを変えられることを恐れているからだ。自分の考え=自分という一種の自家撞着を手放せば、人間には集合知というすばらしい資源が手に入るのかも知れない。これは私にとっては、ますます確信となってきている。

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