2008年9月30日火曜日

何も失われない

私たちの体験はすべて脳の中で起きるらしい。
どの体験にも固有の活性・不活性の神経回路パターンや
固有のケミカルの量や組み合わせがあるだろう。
この世に、何一つ同じものはないから。
あらゆる体験は固有の物理信号となって宇宙に発信されているはず。
同様にいま私たちも、誰かのあるいは何かの体験の信号の中で生きている。
死の体験も虐殺の体験も、今私の神経はキャッチしているはず。
信号の世界では未来も過去もない。
私たちはマンモスの絶滅も、交尾の喜びもキャッチしているはずだ。
太陽が燃え尽きた後の冷たい宇宙もキャッチしている。
失われるものはない。
変わらないものもない。
そして、全部足していくと、何もない。
私の選んだ冒険は、宇宙に体験の喜びの信号を送り続けること。

2008年9月11日木曜日

集合知…人間の存在の仕方のひとつ

人間が集まって、全員で何かを自由に話したり聞いたりしているとき、その場に生まれる集合的な知がある。これを「場」が生まれると表現する人もいる。

誰かの口から自分の尋ねたかった質問が出たり、誰かの答えから自分の質問へのヒントが与えられたりする。ランドマークエデュケーションでアドバンスコースに参加したとき、初めてこれを体験した。それ以降、様々なところで類似の現象が起きていることが見えるようになったのだが。

アドバンスコースは、「私たちは何を現実・本当だとしているか」という問いかけを4日間扱っていく。意図は、「現実」も会話の集合に過ぎない、そして会話の集合が同意を得るとき、現実になる、ということを自分の力の一つとして掴むためだ。コースは探求の形をとる。つまり正解が重要なのではなく、自分の頭で物を考えることで見えてくることや発見できることの方が重要なのだ。しかし、アドバンスコースでは、実際に特定の答えを求める質問もあった。ときにはリーダーが、物理学の時間かと思うような質問をしてくる。100人の参加者の誰かが手を挙げて答え、このやり取りを通じて会話が進められていく。

何かが現実だと言うためには何が必要か、というような会話をしていたときだ。様々な人が手を挙げ、一コマ会話ずつを前進させる。「だとしたら、これはどうだ」という形で会話が何段階か進んだ後、一つの質問で百名全員が詰まってしまった。私も含めて何人かが、正解ではないと知りながらもこうではないか、と挑戦する。そうやって何人かの人が発言した後に、私の斜め何列前かに座っていた若い女性が初めて手を挙げた。リーダーに指名されてその女性が立った。おずおずと「あのー、こうこうということはこうこうで…」と自分の思考の一部を話し始めた。どの段階でだったか…私の記憶では彼女が立って「あのー」と話し始める以前、手を挙げて立った時点であったように思うが、私は「あっ、ここから答えかが出てくる」とわかった。そんなことあり得ないのだが「あ、出てくる」と分かったのだ。それも私だけでなく、部屋の全員に、今何かがこの人の口から生まれてくることが了解されている、という体験であった。果たして、彼女の口からは正解がでた。彼女の思考の結果として。

なぜ彼女が手を挙げて立ったときに、私に、そして、私の目からみて人にも、そしてリーダーにも、彼女の口から正解が出てくることが、「あのー」の段階でわかったのか。リーダーには一番先にわかっていたように思う。リーダーは、彼女が自分の思考をまとめるために、かなりもたもた話すのに、余裕を与えて待っていたからだ。出てくる、出てくる、とみんなが思っていた。そして答えが彼女の口から出た。ほーっと言うため息が漏れた。

こういう現象は、一度区別できれば、様々なところで見受けられる。本能的にこれを知っていて、引き起すように会議を主催する司会者もいる。私も自分がプログラムをリードするときには「この人から何かが出てくる」と分かるときがある。そのとき私たちは集合的な知として存在しているのではないかと思う。こういうようなことは、人が自由に思考して思ったことを自由に言い、それが一つの可能な観点として聞かれるオープンな場ではよく起きるように思う。

一人の独創的な思想家・天才から素晴らしいアイデアが出てくるのだろうか。それとも、実り多い自由な会話・思考の中で作られる集合知の中で誰かの口からアイデアが出てくるのだろうか。私は後者の方ではないかと思う。全員が参加したという意識があれば、その結果もより成果を生むのではないか。

話し合うこと、対話することが時間の無駄だと思う人もいる。大抵は、自分の考えを変えられることを恐れているからだ。自分の考え=自分という一種の自家撞着を手放せば、人間には集合知というすばらしい資源が手に入るのかも知れない。これは私にとっては、ますます確信となってきている。

2008年9月10日水曜日

ブレークスルーテクノロジーコース

ランドマークエデュケーションのブレークスルーテクノロジーコースに参加したのは1991年。会社の大先輩と奥様の推薦。何の期待もなく自分はこんなものは経験済みくらいの気持ちで行って、ぶったまげた。こういう会話が百三十人もの様々な人々の集合の中で可能だとは! 後になって知ったが、ブレークスルーテクノロジーコースは海外ではランドマークフォーラムという呼ばれている。Forumというのは「集会」というような意味。ソクラテスが街角で行った問答大会がForumと呼ばれたらしい。様々な人が参加して「美とは何か」「善とは何か」などについて探求していく。終わった後、家路につくときには、来たときとは別人になってみんな帰っていったそうである。
ブレークスルーテクノロジーコースは「自分」というものに対するメタ認知の力をつける会話の集合だった。私にはメタ認知なんて世界は存在していなかったから、最初は質問の意味が分からず、対話が食い違っているように見えた。そしてメタ認知は一瞬にして起きた。コースの1日目の午後、自分がどんなふうに人の話を聞いているのかを、まるで光速で振り返って自分の顔を見ることができたかのように、生まれて初めてとらえることができた。知的理解ではない。私の「聞く」が発生している現場を押さえたのだ。驚愕かつ開放の体験であった。
まったく歯車が合っていないように見える対話の中で、人が「自分」というものがどう活動しているかを、「今・ここ」で掴み、掴んだそのことによってその束縛から自由になる。どうしようもない甘ったれの30代の管理職の人が、30分の対話の中で自分の行動に責任を持って逃げ隠れしない大人に変身するのを見た。その人の姿勢、視線、声までもが変わった。人間は一瞬にして変われるものであることは、自分の体験からも知っていたが、それを自分で起こすことのできる会話技術があるとは知らなかった。
自分を客観的に見る能力の重要さは誰でも知っている。ところが、概念的な理解だけしかないと単なる知的解釈ゲームとなり、何の変化も生み出さない。今自分の中で何が起きているかをリアルタイムにメタ認知してこそ、自由に次を生み出す選択が生じる。観察と正直さと勇気。ブレークスルーテクノロジーコースにはこれらが必要。

危険な世界を恐れる人々

危険な世界を恐れる人を世界は恐れる。
危険な世界を恐れる人は、自分を弱いとする。
弱い自分を守るために兵力を蓄積し
より効率的に自分が恐れる人々を殺す方法を開発する。
その弱い人が世界で最も危険だ。
世界を危険だと恐れる人たちは世界をますます危険にしていく。
自分を弱いとすることによって。
このようにして人は自ら唱えるものに成り、
自ら唱える世界を作り出す。
今も、古代からの言葉の魔法は生きている。

巨人の触覚

人の中には巨人が眠っている。
時々それが目覚めて動き出す。
自分であると思っていたものは自分ではなく、
巨人の触覚に過ぎなかったと気づく。
巨人なので、力も動きも環境よりも大きい。
かならず何かを壊さずにはおかない。
現代社会のメッセージは、巨人はいないと繰り返す。
触覚が自分だと言い続け、巨人を催眠にかける。
おまえはこのちっぽけな触覚だ。
それがおまえだ、と。